ヒューマンエラー

また、園児を送迎バスの中で
熱中症で死なせるという
痛ましい事故がおこった。

ニュースを聞いていて、
心が張り裂ける様な思いに駆られる。

そんな中、どこかの若い
幼稚園の経営者が、
国にこういう事故の防止装置の
設置を要望していた。
”ヒューマンエラーは起こるものだから
それを防ぐには防止装置の設置が
必要だと。“

そのニュースにとても
違和感を感じた。
どこが、どうという
説明はつかないが、
何かが心に引っかかった。

いうことはわからんでもないが、
なにか根本的に間違っている
気がしてならないのだ。

われわれ医療の世界は
毎日がヒューマンエラーとの
戦いといっていい。
毎日、毎日が、
エラーとの勝負なのだ。

医療では、とんでもなく
小さなことが
人の死を招く世界である。

それは、命を扱う医療の世界の宿命と
いっていい。
日本全国で毎日、医療が
とてつもない人数で行われている中
死につながるミスは
残念ながら多々ある。

やはり、死に至るまでの
医療事故は
どうしても大病院に多い。
それは、危険な処置や手術。
あるいは危険な疾患を扱うというのもあるのだが、
やはり、多くの患者さんをあつかうから
おこる事故が多い。

たとえば患者さんを取り違えて
手術をしたという事故。
中小の病院で
1日1件や2件の手術数では
とうてい起こりようのない
ミスである。
異型輸血(血液型を間違えて投与すること)
や抗がん剤を間違えて投与することは

中小の病院で
輸血件数が少ない病院や
抗がん剤を投与する件数が
少ない病院では起こり様のない
ミスである。
(輸血の血液が病院内に一つしかなかったり
抗がん剤を投与する患者さんの人数が
少ないと、間違えようがない。
職員も患者さん一人、一人を認知しているから
人を間違えることもまずない)

今は、患者さんは、アームバンドを
つけられ、完全に
コンピューターの支配下に
おかれて、昔に比べて格段に
間違いのない様なシステムになっている
にもかかわらず、
さほど、死に至る事故が
私の若いころに比べて減ったとは
思えないのである。

ヒューマンエラーとは
それをはるかに越えたエラーなのである。

機械を導入したところで
ヒューマンエラーは起こる。
それどころか
我々からすれば機械に頼ることでの
エラーが怖い。
機械が正しいと信じ込む

最終的には
指さし確認と、職員との
応対返答である。

若いころは
システムコンピューターなどなく
さらに、パワハラくそくらえの時代で
今より個人個人の教育が徹底して、厳しく、
輸血は、主治医が直接、確認して行ったり
抗がん剤を投与するときは
自分で調合したり
横で見ていたあるいは、
自分で投与する
様に徹底、教育されていたし、
手術には
必ず一緒に手術室にはいり
手術室で麻酔をかける前に
本人と話しをするという
教育が厳しく行われていた。

つまり、患者さんとの
つながり、コミュニケーションを
するようにしっかり教育されていたのである。

だから、
じじいの医者、
危険な場面を潜り抜けてきた
医者としては、
老婆心ながらいいたい。

機械やシステムに頼るな。
主治医は患者に(その主治医精度が薄れている)
責任をもて
事故は必ず起こる、
ミスは必ず起こる。

それを死に至らしめないのは
人の行動。人の責任感
だけなのだ。

もう一度原点にもどって
人と人とのぬくもりを感じる
仕事をしないと
機械に頼っていたのでは
かならずまた同じ
ことがおこりますぞ。

例えば、
荷物を運ぶのに
発送する人が
直接、受け手のことを熟知して
(たとえば友達なんかに)
受け手の所まで持ってゆくと
間違いはないだろうが、

大量の荷物を
それを何人もの他人の手を通し、
機械にいわれるまま配達したら
どこかげミスが起こるのは間違いない。

と、小さな子供が
亡くなったいたましい事故に対して
真面目に真剣におもったのでした。