親不孝通り


以前にも言ったことがあるが
私、大変優等生だったもので
勉強というものをほとんどしたことがなく
(嘘だとおもわれるかもしれないが
本当に、塾にもかよわず、
教科書、問題集はほとんどさらの状態)

当然現役で、大学に受かるわけもなく
受験している段階で予備校を探して
いたのだが、
高松だけからは出たくて
いろいろ東京や、大阪で、予備校をさがしていたのだが、
結局、おやじもさすがに
このドラ息子がやばいとおもったのか
福岡のおやじの知り合いが関わっている
予備校に行くなら金を出すということで
福岡に行くことになった。
(おやじが九州大学だったので)

博多は、マー高松に比べると
都会だし、親元からはなれた
解放感もあり1年間パチンコで稼いでは
天神で買い物をするという
典型的なダメ浪人生。

人生で、初めて勉強したのは予備校の2年目
突然、3浪したくないという思いと
このままだと、人生ダメになるという
思いが出現して突然
予備校の2年目より勉強を始めた。
さすがに1年の勉強で九州大学の医学部は
無理だったのだが、
その年に受かった大學で一番の伝統校が
福岡の久留米大学だったのでそこにいったのだが。。
(我が家はどうもいろいろ福岡に縁が
あるみたい。。。。他にもいろいろ)

話は若干それるのだが、
当時は、予備校生はおおよそ半分は
ダメ浪人生。
(おいでみなさん聞いとくれ、ぼくは
かなしい受験生♪♪~((高石ともや))の
少し後の時代)

福岡に以前、大きな予備校が2校あって
そこと天神の駅を結ぶ道路を
“親不孝通り”と呼ばれていた
まさしく、その通りとおもっていたのだが、
いろいろな批判や情勢で
廃止になった(予備校もなくなり)

この“親不孝通り”の呼び名はいかにも
昭和のハイセンスと人々の
暖かさが感じられるいい愛称で
予備校生自体が自分の境遇を思い知らされる
いい呼び名だったと思うのだが、

その廃止に平成の時代の
人間の余裕のなさを感じる

それがまた周囲の商店が
廃れた人通りを復活させるために
もう一度“親不孝通り”が復活
した様だが

これもまた逆に令和の時代の
世知辛(せちがらさ)さを感じるのである。


医学部は他の学部と比べて
やはり部活をする時間が圧倒的に
少ないのだが、
当時は、各大学、各部活に結構
全学の選手がいて
(もちろん結構その人達は代返で
講義にもあまり出てない。。??)
また、その人達が結構医者に
なって学を修めたりしている。

なんともおおらかな時代だったし
当時の人間性の余裕さえ感じる。

こんなたわいもないことにさえ
時代や社会、人の心の余裕のなさや
窮屈さ、世知辛さを感じるのである。