横審もされたC大整形外科名誉教授、さすが良いこと言われます。

以下がそれです。

私は1967年3月に千葉大学医学部を卒業しました。4月から国立東京第一病院でインターン生活に入りました。私の学年が最後のインターン生であり、次の学年から学園紛争でインターン制度は廃止され、厚生労働省は名ばかりの卒後2年臨床研修制度を創設し、それが守れなかったために、2004年新医師臨床研修制度(卒後2年以上の臨床研修必須化)を創り、現在の医師の極在化による地方での極端な医師不足が生じる現状を創る原因となりました。私の後輩の人達がインターンをしなかった事についてはどうでも良いのですが、私は大変楽しいインターン生活を新宿区戸山町で過ごすことが出来ました。たまには新宿に飲みに行き、偶然飲み屋で一緒になったアメリカ人の看護婦さんとアメリカでは、という話を楽しんだことも覚えています。
 大学時代出来が悪かった方ではありませんでしたが、GOT,GPTも知りませんでした。インターンの毎日は吸収するものが多く楽しくて仕方ありませんでした。毎朝6時半には病院に行き、それまでに看護師さん(当時は看護婦さん)が用意してくれた点滴を片っ端からやりました。お陰様で点滴の上手いインターン生という評判を頂きました。インターン後半で内科を回った時に出会った患者さんが〇井〇〇さんです。今でもfull nameを記憶しており、忘れられない患者さんです。病名は「再生不良性貧血」でした。当時は現在のような詳しい診断も出来ず、良く効く薬もありませんでした。当時としては最高の医療をしていたのですが、一定期間たつと貧血になってしまい、対応策としては輸血しかありませんでした。当時は輸血をするのには太い金属の針(輸血針)を静脈に刺さなければなりませんでした。現在ではもう少し細いエラスター針を刺すので以前よりかなり易しくなっています。輸血を繰り返していると、太い静脈はつぶれてしまい、時には静脈より太いのではないかと思うような静脈針を刺さなければならない時もあります。私は毎朝の点滴訓練で太い静脈針でも上手に刺すことが出来るようになりました。内科の担当医よりもずっと上手になっており、内科が終わって他科に行っている時でも、その患者さんに輸血が必要になると内科の主治医からお呼びがかかり、私が病棟へ行き、輸血をさせて貰いました。内科の主治医が輸血を何度か失敗しているうちに患者さんが私を指名するようになったようです。
 そうこうしているうちに私のインターンも終わりになって、最終日の夕方になり病院の講堂でインターン生の送別会があり、多少アルコールが入った時に、その内科医が私を呼びに来てくれました。あの患者さんが亡くなったという事でした。当時は病院で亡くなると今後の勉強・研究の為に病理解剖をお願いするのが普通でした。内科主治医もその話を患者さんのご遺族にお願いしたら、息子さんから、「あのインターン生はどう言っているのですか。お袋はあのインターン生の言う通りにしてくれと言って亡くなったので」という訳で私を呼びに来てくれたようでした。私が病理解剖をお願いしたら、即座に了承してくれました。病理解剖室でずっと病理解剖を見ていたのを今でも記憶しています。
 この経験は私が医者になってからも大変役に立ちました。本を読んで、あるいは講演を聞いて、色々と知識を身に付ける必要はありますが、医者は技術も身に付ける必要があります。特に外科医は手術が上手でなければならないと思っています。ある時に上手に点滴をしたら、ある先輩から「点滴が上手いだけで名医だと思う患者がいるからなー」と揶揄されたこともありましたが、医者は点滴も手術も上手でなければならないと思っています。