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05 May 2012 の投稿一覧です。
カテゴリー: 総合
投稿者: kogame
ゴールデンウイークはみなさんいかがお過ごしですか?

尾道はいい天気ですよ。また観光客の方々でいっぱいです。

どこのラーメン屋も大行列です。

家でまったりとこの画像みながら旅行気分はいかがですか?



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カテゴリー: 総合
投稿者: kogame
日経メディカルブログから

 今回は、接遇とコミュニケーションについて書いていきたいと思います。最初に言い訳しておきますが、私は医療職には接遇技術が必須で、接遇技術を高めることは医療職に従事する者として、責務の1つだと思っています。しかし、私は接遇技術を高めていくことが、ある意味でコミュニケーションを阻害することになり得るとも考えています。

接遇のめざす姿とは? 
最近、患者様の前できちんと無礼なく振る舞える若い医師が実に増えました。彼らは学校などでちゃんとした接遇技術を学び、身に着けているのでしょう。それに比べると、オジサンオバサン医師は接遇技術がつたなく、平気で患者を怒鳴りつけたりするような、実にけしからん患者対応をする人が多いです。一方、そんな接遇もロクにできないオジサンオバサン医師が、患者様との対話の中で感動的な行動を見せることがしばしばあります。ひどい言葉を使いながらも、その医師が患者と真に向き合い、診療に関する自分の意図を話している光景、患者様の意図を読み取ろうとしている光景を見て、研修医も「ああいう医師になりたい!」と、グッとくるわけです。

 これはなぜなのでしょうか? オジサンオバサン医師は、実はとっておきの接遇技術を隠していたのでしょうか? 違います。接遇が苦手な彼らは、接遇とは違った形で、患者様との間に感動的なコミュニケーションを持ったのです。

 私は、接遇とコミュニケーションの正確な定義についてよく知らずに書いていますが、この2つの行動は全く違う目的を持っているように思います。接遇の目指すものは何でしょうか? 私は「顧客に快適さを与えること」だと考えます。接遇上手なサービス提供者は顧客を満足させることができます。これは大変素晴らしいことです。しかしながら、「顧客に快適さを与えること」が達成されてしまえば、そこで終わりです。

 接遇のもう1つの基本スタンスは、「自分が変わらないこと」だと思います。接遇によって顧客が何らかの変化を起こすような状況に、私は遭遇したことがありません。また、接遇をする側も、顧客と接することで自身の変化というものが無いと感じます。

 多くの人は、自分が変わらないことで安心を得ようとします。接遇技術を覚えることで、自分にとって理解不能の人間と出会った時にも、きっと当たり障りなく上手に対応できるでしょう。そして、おそらく自分が傷つくことも少なくなるはずです。

しかし、この「当たり障りのなさ」こそが、人と人とのコミュニケーションにとっての「敵」であると、私は思うのです。

マンガに見るコミュニケーションの達人
 少し医療を離れてコミュニケーションと接遇について考えてみましょう。私はずっと公務員なので(関係ないか)、「夜になると店にお姉さんがいてお酒が飲める店」にほとんど行ったことがありません。が、そこに行くお客さんは、お酒を飲みに行くというよりは、お姉さん達と話しに行くのがメーンなのかと思います。店に通う常連さんは、彼女らのすばらしい接遇に対して満足しお金を払うのでしょうが、おそらくそこにあるのは接遇だけではないと思います(想像ですが)。

 私が好きなマンガに「デリバリーシンデレラ」(著者:NON、発行:集英社)があります。主人公は普段は地味な女子大生で、介護福祉士を目指して勉強に励んでいるのですが、夜になるとガラリと印象を変え、とても人気のあるデリヘル嬢として働くのです。その彼女が素晴らしいのは、多くの顧客が喜ぶ最大公約数的なサービスを淡々とこなして人気を維持しているのではなく、顧客ごとに丁寧なコミュニケーションをとり、それぞれに対応を変え、顧客に積極的に関わっていく点です。またその結果、自分自身も影響を受け、人間として成長していくところが素晴らしく、ずっと読み続けています。

もうひとつ、「ソムリエール」(原作:城アラキ、漫画:松井勝法、監修:堀賢一、発行:集英社)というマンガがあります(マンガばっかり!)。主人公は見習いソムリエール。お客さんが注文するワインをニコニコしながら供すればいいところを、ワインに関するうんちくを語り始めるなど、しばしばおせっかいを焼きすぎて怒らせてしまいます。彼女はワインを介したコミュニケーションの中で、顧客やその仲間らなど色々な人を巻き込みながら、自分自身が傷つき、そして変化をしていきます。それが、予想もしない良い結果を生むこともあれば、つらく悲しい状況になることもあります。それでも彼女はその状況を生んだ責任を受け入れるとともに、変わっていく自分に対する覚悟を持ちながら、ワインの専門家として生きていく姿を見せてくれるのです。

 私は、この主人公2人の「専門職として、顧客に対して真剣にコミュニケーションをとっている姿」に感服し、感動を覚えるのです(マンガをお読みいただければ、なおさら分かります!)。そしてこのコミュニケーション方法は、医療にも通じるものがあると思うのです。

接遇とコミュニケーションの目指す方向は違う 
もう1つだけ、医療と違う話題を。少し前にEBMで有名な、武蔵国分寺公園クリニックの名郷直樹さんとお会いしました。その時、今年1月に芥川賞を受賞した作家、田中慎弥さんの記者会見について話し、2人で共通した見解を持つに至りました。

 テレビなどでご覧になった方も多いと思いますが、彼の記者会見の態度や質疑応答の内容は、マスコミからは不誠実な行為と捉えられ、彼は批判を浴びていました。でも実際どうでしょうか? 彼はあの短い質疑応答の中で礼節をわきまえ、必死にコミュニケーションをとろうとしていました。記者の言うことに身を乗り出して耳を傾け、受けた質問を流そうともしません。おそらく意図的に接遇技術を用いず、シャイなため多少酔いどれながらの受け答えでしたが、うれしい気持ちを必死に表現していると、私には見えました。

 私はあの記者会見を見て、自分の中にある「接遇」という言葉と「コミュニケーション」という言葉の、目指す方向の違いが明確になった気がしたのです。今までは、医学生が模擬患者を相手に医療面接技術を磨く姿を見て、良いことだと思いつつも一方で違和感がありました。そして、常々病院見学に来る医学生に対してよく「医療面接のシミュレーションなんかやっとる暇があったら、合コンに行け!」と言っていました。その源泉は、接遇として模擬患者に対し「それは大変ですね」と共感的ではあるけれども、当り障りのない表現をすることに対する、違和感だったのだと気づきました。

 おそらく、すべてのサービス業に携わる人間は、自分の顧客と接するとき、接遇とコミュニケーションの両方を要求されます。また医療者のような専門職は、自らが有している専門的技術に裏付けられた自信や責任とともに、自分の発言が顧客を変えてしまう可能性があることを、毎日意識して勤務をしなければなりません。

 そうした医療者が他者としっかりしたコミュニケーションをとるために必要なのは、おそらく「意図と覚悟」なのだと思います。対話をする相手に何を伝えたいと思っているのか、何を学ぼうとしているのかという「意図」、そしてそれによって相手を変化させてしまうこと、自分が変わってしまうことに対する「覚悟」が、大なり小なりコミュニケーションには必要だと私は考えます。そして、大事なことは、これは接遇技術だけを身につけていても、できないのです。「それは大変ですね」と言っているだけでは、ダメなのです。

ベストの選択を捨てるやり取りこそがコミュニケーション 
医療現場を振り返ってみましょう。例えば、インフォームド・コンセントの場面で、医療者は何を目指しているでしょうか?多くの場合、目の前の患者に対して自分が正しいと考える診療を、患者が全て受け入れてくれることを「理想」としているのではないでしょうか。もしそうであれば、医療者は患者によって変化させられることはほぼ無いでしょう。

 たとえ「何か質問はありますか?」という、接遇技術として必要とされる問いかけを行ったとしても、コミュニケーションが存在しない状況では、インフォームド・コンセントの中で患者と医療者が到達できるのは、せいぜい患者と医療者の「中間地点」だと思います。中間地点に落ち着くインフォームド・コンセントは、それ自体は及第点ではあります。なぜなら、患者を医療者のフィールドに引き込んで勝手に治療方針を決めたり、逆に患者の言い分だけに従って意思決定をしたりしてしまう、どちらかに偏った医師患者関係よりはるかに良いからです。

 でも私は、インフォームド・コンセントが中間地点ではなく、別のどこかの場所を一緒に見つけ出すようなプロセスとなれば、医療はもっと素敵なものになると考えるのです。お互いが「妥協案」としてしか認識できない着地点ではなく、ともに「この時点でのベスト」と認識しあうことができる場所を見出すことです。そのためには、お互いがついさっきまで持っていた「ベスト」の選択を捨てなければなりません。それは、お互いが過去の自分から変化することにほかなりません。そのやり取りこそが「コミュニケーション」なのだと、私は考えます。先ほど例としてあげた、マンガの主人公はまさにこれを実践しているのです。

 最後に、私は「人間はコミュニケーションをするために生まれてきた」のだと思っています。得体のしれない他者と、その他者が作り出した音楽や文章と、他者の集まりである社会と、そして自分自身とのコミュニケーションが、人が生きる理由だと思っています。

著者:尾藤誠司