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May 2011 の投稿一覧です。
カテゴリー: 総合
投稿者: fukamori
5月30日(月)

みなさん、こんにちは!

5月も残り2日となってしまいましたー。
あさってから6月ですね。衣替えの時期です。
お洋服好きな私としては嬉しい時期でもあります(^^)


さて。

前回、前々回と被災地石巻市での救護活動の報告を致しました。

今回は私が所属する明石市医師会における被災地支援活動報告について
リンクを貼ります。
ご興味のある方はぜひご覧下さいね。

明石市医師会 東日本大震災被災地支援活動報告




カテゴリー: 総合
投稿者: fukamori
みなさん、こんにちは!今日(5/25)はお昼間ずいぶん暑くって、アイスを2つも食べてしまいました・・・。それでは前回の続きです。

石巻報告(2)~石巻中学校で始業式~ 

4月20日(水)
仙台市内から渋滞があり3時間かけてお昼頃に石巻中学校へ到着しました。道中は地震により道路が凸凹していた事や被災地へ行く緊張も重なり想像していたよりも疲れを感じました。渋滞を抜け、ようやく石巻中学校へ到着し、先陣の第14陣メンバーと対面で引き継ぎができました。まず石巻中学校の避難している体育館と教室を巡回し、救護所での診療を行いました。午後5時すぎには救護活動を終え、帰途につきました。

宿泊は仙台市内のビジネスホテルでしたので、救護活動が終了するとチームのメンバーとともに渋滞の中、2時間半かけて仙台へと帰途につくのでした。
今回の震災は経済的被害も大きいものでした。幸い仙台市街は飲食店やコンビニは営業していましたので、メンバーみんなで「少ししかできないけど経済貢献しよう!」ということで牛タンの専門店で舌鼓を打ちました。そして塩釜市の地酒「浦霞」を皆で味わい今日一日の疲れを癒したのでした。(ちなみに石巻の地酒は「日高見」と言います。これも後日飲みましたがすっきりとした味わいでとても美味しかったです。)
こうして生まれて初めて石巻にやってきた一日が終わろうとしていました。

(写真)救護所内の様子。患者さんに薬の説明をしています。後ろに黒板が見えて、ここが学校であることに気づきます。
救護所.jpg


4月21日(木) 
朝6時20分に仙台市内のビジネスホテルを出発し、8時からの朝のミーティングに全員参加します。ミーティングは毎朝行われ、前日の活動内容や通達事項を連絡します。
兵庫県医師会JMATは石巻のエリア4というエリアを新潟県医師会と一緒に担当しています。看護師、薬剤師、心のケアチーム、ボランティアの学生さん(学生さんは1か月以上この救護所でボランティア活動されていました。)が同じエリア4で一緒に活動します。お互い初めて会う人間同士で救護活動するのですから、情報の共有、方針の一致確認、そして何よりも意思の疎通、連携が必要です。連携していくことが何よりも大切だと今回の活動で教えられました。


(写真)朝のミーティングの様子  教室を救護所として使用しています。兵庫県、新潟県、岐阜県、鳥取県など全国各地からやってきた災害支援チームの皆さん
朝み2.jpg

(写真)朝のミーティングの様子 
朝ミーティング1.jpg



ミーティングの後はメンバーが各避難所5か所(石巻中学校、山下小学校、住吉中学校、公民館、図書館)で巡回診療を行いました。避難所の状況は場所によってまちまちでした。場合によってはシャワーが使える避難所もありましたが、ほとんどの避難所ではお風呂もなく、高齢者は洋式トイレがなくて非常に不便でした。
石巻中学校には約500人の被災者がおり、体育館、すべての教室で避難生活を送っていました。5月連休中に教室で生活している避難者の方々は山下中学校へ移動となりました。避難所を移動するわけです。被災して、避難しているのに、今からまた別の場所へ移動するということは大変だと思いました。こうした問題は仮設住宅や集団移住、そして再雇用を急がなければ乗り越えるのは難しい課題だと思いました。また私が巡回診療で会った女性からは「私は震災があって、ここに来たけどね、食事が毎日パンやおにぎりでしょう?体重が増えてしまってねー。こんな風になっちゃって困ったわ。」と、お腹の肉をつまんで冗談まじりにおっしゃっていました。実は今回の震災は慢性期に入ると物流システムがある程度復旧して食糧供給がありますが、避難所で配られる食事は炭水化物が多く野菜が不足して、かなり栄養の偏りがあります。また避難所で寝起きするだけで運動不足が続いており生活習慣病が悪化していました。それから、東北の人たちは、控え目な人が多いので救護所まで積極的に受診されるケースは少ないと感じましたので看護師と一緒に体育館や公民館などを巡回し声をかけて回りました。そうしてやっと「実は眼鏡が震災で壊れてしまって困ってるんですよ・・・」という方や「1週間ほど前の巡回診療で白内障の目薬を処方してもらったけど、目薬がまだ届いてないんです。」と言った方を発見しました。さっそく点眼薬を処方しました。また近隣の医療機関も徐々に復旧再開していたので、今後はかかりつけ医へ受診するように説明をしました。救護所から地域医療機関への橋渡しを始めるタイミングでもありました。

眼科医としての活動については準備物のこともあり出発前に先陣の眼科医の先生に電話にて引き継ぎを行いました。さらに石巻市の眼科医の先生方とも連絡を取り、避難所の状態の変化(現地に行きわかったのですが、本当に一日一日状況が避難所の状況が変化していました。)
それから眼科薬剤、コンタクトレンズ(以下CLと略)等の支援物資の在庫状況を教えて頂きました。受診内容は津波で流されたCL・老眼鏡処方、アレルギー性結膜炎、ドライアイ、震災で通院できなくなり伸びたさかまつ毛を抜いて欲しい等です。一番希望が強かったのが白内障予防薬の処方でした。不急の点眼薬ですが、ただでさえ不安な避難所生活が益々不安になっている方も見られました。

避難所の状況ですが私たちが活動していた間(4月21日)に石巻中学校や周辺の小中学校で始業式がありました。友達と会えて嬉しそうな生徒や保護者の方を多く見かけました。少しずつ日常を取り戻し、確実に前に進んでいるという大切な節目の一日だったと感じました。


4月22日(金)
この日も朝6時過ぎに仙台を出発しました。石巻中学校の救護所についたのは8時過ぎ。朝から大渋滞です。ようやく朝のミーティングを終えて救護活動に入りました。最終日でしたので午前中で診療を終え、お昼に後陣である第16陣のメンバーと引き継ぎをし、石巻を後にしました。運行再開した仙台空港へ。途中、高台にある日和山公園に寄りました。公園はたくさんの桜が植樹されていて桜も咲き始めていて春めいていました。しかし眼下に広がる沿岸部は石巻市民病院だけが孤立するように建っており、その周囲は建築物がほとんどなくなっていました。ヘドロと瓦礫だらけの平地が広がっていました。そして瓦礫を撤去する重機の音と、往来する車の音だけが聞こえてきました。私は、思わず手を合わせ鎮魂のお祈りをしました。桜咲く日和山公園から見た光景はあまりにもむごい光景だったのです。


(写真)日和山公園から見た沿岸部。中央からやや上にある大きな建物が石巻市民病院。周囲の建物はほとんどが損壊しておりガレキの山になっています。
石巻市民病院.jpg

石巻沿岸部.jpg


(写真)日和山公園を降りて、実際の沿岸部付近。

ブログ 道路.jpg

(写真)やっと再開した仙台空港。羽田行き、伊丹行きのみ4便運行していました。暖房はなく非常に寒かったですがチェックイン後に毛布と暖かいお茶、お菓子が配られてとても有り難かったです。仮設トイレは一か所のみ。不便ではありましたが、仙台空港から伊丹へ帰ることができ、往路と比べて1時間ほど短い時間で帰ることができて助かりました。sendai-air port.jpg





仙台空港へ到着すると後は一路伊丹へ向かいました。無事に伊丹空港へ到着し帰宅しました。因みに鳥取の支援チームは車で日本海側を通り1日半かけて石巻へ来たそうです。往復だけで3日間かかると聞いて私は驚きました。福島原発事故があったため日本海側を通り、できるだけ安全な経路で石巻へ向かう対応が取られたそうです。今回、石巻に救護支援活動に来た人々は新潟、鳥取、山形、沖縄、岐阜、、、など日本全国からの参加でした。

最後になりますが、一緒に活動して下さったチームの皆さんを始め関係者すべての方に心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。また医療政策の原点を学ぶことができました。そして東北、関東地方の被災した地域に必ず明るい未来がやって来ることを強く信じ、最後の言葉とさせて頂きます。









カテゴリー: 総合
投稿者: fukamori
5月11日

皆さん、お久しぶりです。
3月からブログの更新が止まってしまっていました。。。楽しみにしてくださっている皆さん、すみませんでした。

ですが、ブログの更新が止まっている間に
ふかもり眼科 ホームページがリニューアルしました!!(^^)ヤッター!

院長の好みにぴったりで、わたしは大満足しております。
新しいホームページ作成を担当してくださったのはアイモバイルの方です。今後ともどうぞ宜しくお願いします。

3月からずっとブログを更新していなかったのには少々理由がありました。
3月11日の東日本大震災が発生し、それ以降いろいろと私自身やわたしの周りの状況も変わりました。
皆さんも同じなのでは?
私は4月に予定していた医療関係のフォーラムが延期され(これは7月開催決定!)、
4月20日から22日、5月1日から4日と被災地へ支援活動へ赴くこととなりました。

これを読まれている皆さんの中にも、東北で行き支援活動された方もいることでしょう。
私は阪神大震災で実家が全壊しました。避難所生活を1ヶ月以上しておりましたから、
今回の震災は他人事とは思えませんでした。
また私が加入している兵庫県医師会が震災発生の初期から被災地における救護活動を
積極的に行っていることもあり、私も救護支援活動に参加させて頂きました。


今日から数回に分けて、石巻市の石巻中学校を拠点とした救護活動についてブログでご報告させていただきたいと思います。



~石巻報告1~

報告が遅くなってしまいましたが、ようやく石巻での救護活動について文章を書く気持ちになれましたので、あの二泊三日の濃厚だった時間を振り返ってみようと思います。

4月22日に宮城県石巻市から神戸・明石に帰ってきたのですが、
被災地から帰ってきた後、予想通りしばらくの間緊張状態が続いていました。
さらに4月と言えば季節の変わり目とか、年度初めとかいろいろなイベントごとも重なっていたので
知らない間に緊張状態が続いていた気がします。

とても短い間だったのに、それでも被災地にいますと知らず知らずの間に心身ともに緊張する(ストレスを受ける)ということは、被災者の方々は地震発生からずっと心身にストレスを感じていらっしゃるのだろうと感じました。

私は帰宅して、翌日から普段どおり仕事をしてたのですが、その時とてもホッとしました。
そんなことに気づいて、ふと被災者の皆さんも恐らく普段どおり、普通どおりの時間を過ごしたいと
思っていらっしゃるのでは、、と思いました。この点については後日もう少し詳しくお話したいと思います。



4月20日(水)石巻へ出発
兵庫県医師会で構成されたJMAT 第15陣が石巻に出発。
3月11日震災発生以降、兵庫県医師会の会員(医師)と看護師、事務員、薬剤師を1つの救護チームとして構成し石巻市の石巻中学校の救護所や他の避難所での活動を行っています。

活動期間は2泊3日または4泊5日という期間でチームを交代して引き継ぎします。
私の番でちょうど15番目のチーム。なので第15陣と呼びます。

まず石巻市へのアクセスは空路→陸路という方法でした。
伊丹空港から山形空港へ。山形空港から医師・看護師・事務員・薬剤師がチームとなり8名ほど一緒にバンに乗り込みました。
山形はまだ山の上に雪が残っていて、桜も7分咲き程度でした。
そこから1時間ほどかけて仙台市内へ入り、そのまま北東へ進み石巻市内へ向かいます。
4月20日の時点ではすでに一般車両も交通できましたので仙台市内から渋滞が始まりました。

そして仙台市内の高速道路からの景色を見て愕然としました。
海岸線は見えないのに高速道路より海側には瓦礫が散乱しているのです。
これは海岸線からずっと内陸まで津波が押し寄せてきたことを、震災発生42日目にもまざまざと見せつけられました。

自衛隊の災害救助車両が頻繁に往来するのを見ると、普段は見ない光景なので知らず知らずのうちに緊張感が走りました。
「ああ、ここは非常事態エリアなんだ」って、景色が教えてくれます。
もう1か月以上経つのに、、、。
一体どんな活動ができるのだろうと、少し不安になりながら石巻へ向かいました。(続く)

1)仙台市内の高速道路。高速道路の海側と陸側では景色が違いました。海側は津波の被害があり、瓦礫が散乱していました。道路より内陸側は津波の被害もなく、普段どおりの光景がありました。津波は高速道路の土嚢でようやくせき止められたようです。そして、まだ水(海水)引いておらず水が溜まっている場所も散見しました。
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2)兵庫県医師会 災害救護支援チーム(JMAT)拠点となる石巻中学校の正門
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3)石巻中学校
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