みなさん、こんにちは!今日(5/25)はお昼間ずいぶん暑くって、アイスを2つも食べてしまいました・・・。それでは前回の続きです。

石巻報告(2)~石巻中学校で始業式~ 

4月20日(水)
仙台市内から渋滞があり3時間かけてお昼頃に石巻中学校へ到着しました。道中は地震により道路が凸凹していた事や被災地へ行く緊張も重なり想像していたよりも疲れを感じました。渋滞を抜け、ようやく石巻中学校へ到着し、先陣の第14陣メンバーと対面で引き継ぎができました。まず石巻中学校の避難している体育館と教室を巡回し、救護所での診療を行いました。午後5時すぎには救護活動を終え、帰途につきました。

宿泊は仙台市内のビジネスホテルでしたので、救護活動が終了するとチームのメンバーとともに渋滞の中、2時間半かけて仙台へと帰途につくのでした。
今回の震災は経済的被害も大きいものでした。幸い仙台市街は飲食店やコンビニは営業していましたので、メンバーみんなで「少ししかできないけど経済貢献しよう!」ということで牛タンの専門店で舌鼓を打ちました。そして塩釜市の地酒「浦霞」を皆で味わい今日一日の疲れを癒したのでした。(ちなみに石巻の地酒は「日高見」と言います。これも後日飲みましたがすっきりとした味わいでとても美味しかったです。)
こうして生まれて初めて石巻にやってきた一日が終わろうとしていました。

(写真)救護所内の様子。患者さんに薬の説明をしています。後ろに黒板が見えて、ここが学校であることに気づきます。
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4月21日(木) 
朝6時20分に仙台市内のビジネスホテルを出発し、8時からの朝のミーティングに全員参加します。ミーティングは毎朝行われ、前日の活動内容や通達事項を連絡します。
兵庫県医師会JMATは石巻のエリア4というエリアを新潟県医師会と一緒に担当しています。看護師、薬剤師、心のケアチーム、ボランティアの学生さん(学生さんは1か月以上この救護所でボランティア活動されていました。)が同じエリア4で一緒に活動します。お互い初めて会う人間同士で救護活動するのですから、情報の共有、方針の一致確認、そして何よりも意思の疎通、連携が必要です。連携していくことが何よりも大切だと今回の活動で教えられました。


(写真)朝のミーティングの様子  教室を救護所として使用しています。兵庫県、新潟県、岐阜県、鳥取県など全国各地からやってきた災害支援チームの皆さん
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(写真)朝のミーティングの様子 
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ミーティングの後はメンバーが各避難所5か所(石巻中学校、山下小学校、住吉中学校、公民館、図書館)で巡回診療を行いました。避難所の状況は場所によってまちまちでした。場合によってはシャワーが使える避難所もありましたが、ほとんどの避難所ではお風呂もなく、高齢者は洋式トイレがなくて非常に不便でした。
石巻中学校には約500人の被災者がおり、体育館、すべての教室で避難生活を送っていました。5月連休中に教室で生活している避難者の方々は山下中学校へ移動となりました。避難所を移動するわけです。被災して、避難しているのに、今からまた別の場所へ移動するということは大変だと思いました。こうした問題は仮設住宅や集団移住、そして再雇用を急がなければ乗り越えるのは難しい課題だと思いました。また私が巡回診療で会った女性からは「私は震災があって、ここに来たけどね、食事が毎日パンやおにぎりでしょう?体重が増えてしまってねー。こんな風になっちゃって困ったわ。」と、お腹の肉をつまんで冗談まじりにおっしゃっていました。実は今回の震災は慢性期に入ると物流システムがある程度復旧して食糧供給がありますが、避難所で配られる食事は炭水化物が多く野菜が不足して、かなり栄養の偏りがあります。また避難所で寝起きするだけで運動不足が続いており生活習慣病が悪化していました。それから、東北の人たちは、控え目な人が多いので救護所まで積極的に受診されるケースは少ないと感じましたので看護師と一緒に体育館や公民館などを巡回し声をかけて回りました。そうしてやっと「実は眼鏡が震災で壊れてしまって困ってるんですよ・・・」という方や「1週間ほど前の巡回診療で白内障の目薬を処方してもらったけど、目薬がまだ届いてないんです。」と言った方を発見しました。さっそく点眼薬を処方しました。また近隣の医療機関も徐々に復旧再開していたので、今後はかかりつけ医へ受診するように説明をしました。救護所から地域医療機関への橋渡しを始めるタイミングでもありました。

眼科医としての活動については準備物のこともあり出発前に先陣の眼科医の先生に電話にて引き継ぎを行いました。さらに石巻市の眼科医の先生方とも連絡を取り、避難所の状態の変化(現地に行きわかったのですが、本当に一日一日状況が避難所の状況が変化していました。)
それから眼科薬剤、コンタクトレンズ(以下CLと略)等の支援物資の在庫状況を教えて頂きました。受診内容は津波で流されたCL・老眼鏡処方、アレルギー性結膜炎、ドライアイ、震災で通院できなくなり伸びたさかまつ毛を抜いて欲しい等です。一番希望が強かったのが白内障予防薬の処方でした。不急の点眼薬ですが、ただでさえ不安な避難所生活が益々不安になっている方も見られました。

避難所の状況ですが私たちが活動していた間(4月21日)に石巻中学校や周辺の小中学校で始業式がありました。友達と会えて嬉しそうな生徒や保護者の方を多く見かけました。少しずつ日常を取り戻し、確実に前に進んでいるという大切な節目の一日だったと感じました。


4月22日(金)
この日も朝6時過ぎに仙台を出発しました。石巻中学校の救護所についたのは8時過ぎ。朝から大渋滞です。ようやく朝のミーティングを終えて救護活動に入りました。最終日でしたので午前中で診療を終え、お昼に後陣である第16陣のメンバーと引き継ぎをし、石巻を後にしました。運行再開した仙台空港へ。途中、高台にある日和山公園に寄りました。公園はたくさんの桜が植樹されていて桜も咲き始めていて春めいていました。しかし眼下に広がる沿岸部は石巻市民病院だけが孤立するように建っており、その周囲は建築物がほとんどなくなっていました。ヘドロと瓦礫だらけの平地が広がっていました。そして瓦礫を撤去する重機の音と、往来する車の音だけが聞こえてきました。私は、思わず手を合わせ鎮魂のお祈りをしました。桜咲く日和山公園から見た光景はあまりにもむごい光景だったのです。


(写真)日和山公園から見た沿岸部。中央からやや上にある大きな建物が石巻市民病院。周囲の建物はほとんどが損壊しておりガレキの山になっています。
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(写真)日和山公園を降りて、実際の沿岸部付近。

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(写真)やっと再開した仙台空港。羽田行き、伊丹行きのみ4便運行していました。暖房はなく非常に寒かったですがチェックイン後に毛布と暖かいお茶、お菓子が配られてとても有り難かったです。仮設トイレは一か所のみ。不便ではありましたが、仙台空港から伊丹へ帰ることができ、往路と比べて1時間ほど短い時間で帰ることができて助かりました。sendai-air port.jpg





仙台空港へ到着すると後は一路伊丹へ向かいました。無事に伊丹空港へ到着し帰宅しました。因みに鳥取の支援チームは車で日本海側を通り1日半かけて石巻へ来たそうです。往復だけで3日間かかると聞いて私は驚きました。福島原発事故があったため日本海側を通り、できるだけ安全な経路で石巻へ向かう対応が取られたそうです。今回、石巻に救護支援活動に来た人々は新潟、鳥取、山形、沖縄、岐阜、、、など日本全国からの参加でした。

最後になりますが、一緒に活動して下さったチームの皆さんを始め関係者すべての方に心より深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。また医療政策の原点を学ぶことができました。そして東北、関東地方の被災した地域に必ず明るい未来がやって来ることを強く信じ、最後の言葉とさせて頂きます。